相手の反応を知ることの意味
先日、ウェビナー形式で自社が提供する組織マネジメントプログラムの概要説明をさせて頂く機会がありました。参加者は都内企業の営業関係者20名ほどの方々でしたが、皆さんリモートワークによりご自宅からのオンライン参加でした。通信状態の安定性が各人の環境により異なる可能性があるためカメラ機能は基本オフ、雑音が入らないようマイク機能もオフ、説明に集中いただくためチャット機能もオフにした上で参加して頂きました。
この状態で実施してみた正直な感想は、伝える立場としては非常に難しかった、ということです。他のオンライン研修等で同様な難しさを感じることはこれまでにもありましたが、一番の要因はやはり、相手の反応が見えないということではないかと思います。
前回のブログで、コミュニケーションには非言語による情報をどれだけ取得できるかも言語情報と等しく重要ということに触れました。今回のケースはこれとは真逆で、非言語による情報がほとんど得られる状況になかったわけです。
伝えている内容が理解されているのかいないのか、参加者の表情から窺い知ることは全く適いません。解説に納得しているのか不満を抱いているのか、こちらが問いかけてもなかなか反応が得られません。参加者の皆さんもミュートを外してまで発言するということは、全員が同じ場にいて周囲の雰囲気がわかっているときよりハードルが高いのでしょうか。こちらから当てさせていただいてようやく少し参加者の雰囲気がわかり、ほっとする感じでした。
普段、誰かに話しかけて相手が全くの無反応だとしたら、自分の存在を認めてもらえていないような不安な気持ちになると思います。伝える立場としては如何なる状況でも理解してもらえるように伝え切る責務があるわけですが、今回そんな一抹の孤独感も感じるところがあり、何らかの反応が得られることの重要性を改めて感じました。
上機嫌な赤ちゃんは、抱っこしていたお母さんが無表情・無反応になると、わずかな時間で大泣きしたり奇声を発してストレス状態に転じてしまうそうです。ヒトは他者を通じて自己を認識できる数少ない動物の一つといわれていますが、他者と交わり何らかの反応を得ることで、自分自身という存在に気づき、そして認めることができるのかも知れません。
世の中は様々な場面でオンラインにシフトしつつあるようです。直接会うよりも相手のことが感じ取りにくくなりがちな分、コミュニケーションにも工夫が必要なのかもしれません。
奇しくも、今回のプログラム内容にはアクノレッジメント(承認)に関わる項目が含まれていましたが、伝えている登壇者自身が満たされない承認欲求に苛まれる状態になっていたという、笑い話のような出来事でした。
参加者の皆さんとのコミュニケーションをどうとるか、今後もう少し試行錯誤してみたいと思います。